「シャープとパナソニックは絶対に上手くいかない。」
2008年、当時中国昆山市の液晶パネルメーカー、InfoVision Optoelectronics (Kunshan) Co.,Ltd(以下IVO社)のCEOだった橋本孝久氏は、大型液晶パネル工場建設を発表した大手電機メーカー2社について、筆者にそう語った。
当時の日本では、工場建設のニュースは明るい話題として報じられていただけに、橋本氏の言葉は意外だった。しかし、パナソニックはその12年後に、シャープは16年後にそれぞれ姫路工場と堺工場(SDP)の閉鎖を発表した。なぜ橋本氏は未来を予見できたのか。今年82歳(*)になる橋本氏にたずねた。
(*)取材当時(2025年)
■ 中国で目撃した異質なビジネスの仕組み
橋本氏は1967年に日本IBMに入社した。1990年代、IBMは「ThinkPad」用の液晶パネルを必要とし、橋本氏は全世界のディスプレイビジネスのトップを任された。2000年代にIBMがディスプレイ事業を台湾企業に売却した後、業界での知名度と台湾企業との協業経験を買われて、中国昆山市からIVO社の初代CEOに就任した。実際に中国企業に身を置いてみると、橋本氏はこう確信するようになったという。
「このままでは日本の液晶パネルメーカーは総崩れになる」
その理由は3つあった。
一つ目は「政治」
日本では工場建設の主目的はビジネスの拡大だ。しかし中国の場合、GDPを増やし雇用を生み出すことが政治家にとって一番の功績であり、始めから日本とは目指す方向が異なる。中国の地元政府はインフラや税制面で企業を支援する。土地の取得費用や水、電気、ガスなどの重たいインフラコストを背負う日本企業とは対照的だ。支援があっても失敗するケースはあるものの、背負うものが少ない分、中国企業は思い切った低価格で世界と勝負しやすい。
もちろん、民間主導だからこそ日本企業は独立性を保ち、長期的な経営判断ができるという面もある。だが、と橋本氏は指摘する。液晶パネル産業のように、政府支援が大きく競争環境を左右する業界では、その「独立性」が逆に足かせになった。
中央政府の指導部は、国内で企業が乱立しないように企業設立の許認可を行い、経営方針にまで関与する。中国の政治家は選挙や政局に力を入れる必要はない代わりに、地元での実績をつくることに集中する。そのため、政治家自らが徹底的にビジネスを学ぶ。橋本氏は「そこまで役人が知っているのか」と何度も驚かされたという。
この点で日本との違いは際立つ。2023年に行われたシャープの111周年記念パーティーでのスピーチは象徴的だ。登壇したのは自民党元幹事長で経済産業大臣も務めた甘利明氏。冒頭、シャープを「ソニー」と呼び間違えた上で、こう言い放った。
「我々政治家の間では『七不思議』とよばれている謎がある。液晶テレビを開発したシャープがなぜ経営不振に陥り、台湾ホンハイの傘下に下ったのか。それは七不思議の一つだ。」
全てを民間に任せ、技術の海外流出に有効な対策をとれないまま、日本で生まれた液晶パネルビジネスは沈没した。それを「謎」の一言で済ませたスピーチに来賓の多くがあきれていた。
二つ目は「スピード感」
橋本氏は例え話を得意とする。
「20階のビルを建てるとする。日本では20階分のお金を集めないと建設を始めない。でも中国はトップダウンで決めて、1階だけ建てて、その成功を元に次の階を建てる資金を調達する。もちろん途中で失敗するケースも多くあるが、中には20階まで完成するビルも出現する。日本が20階分の資金を集め、ビルを完成させるころにはもう遅く、勝てない」
中国企業のリスク・テイキングのハードルは日本企業に比べて圧倒的に低い。スピードを重視した意思決定を軽々と実行する。検討ばかりして決められない経営では、中国企業のスピードにかなわない。
橋本氏は中国式の素早い決定には失敗も多いことも認める。だが変化の激しい液晶産業では、その失敗よりも、日本企業の「慎重さ」の方が致命的だったのだ。
三つ目は「合意形成プロセス」の違い
日本の意思決定は「ボトムアップ」が一般的だ。各専門部署の知見を集め、最も正しい決定を行うための合理的なプロセスと考えられている。だが橋本氏は、ここに落とし穴が潜んでいると指摘する。
——下は上を騙すんだよ。
もちろんこれは悪意を持った部下による欺瞞を指すのではない。人間の本能として「こうあって欲しい」という願望が、いつしか現実のように見え、それを否定する情報を無意識のうちに遮断してしまう。橋本氏が指摘するのはこの心理メカニズムなのだ。
かつて他国の状況分析もせず、日本の技術者たちが「10年以内に他のアジアの国が自分たちに追いつくことは絶対にない」と上層部に断言したことを橋本氏自身が知っている。現実はどうか。大規模な設備投資を行った韓国と台湾企業、そして後から追いかけた中国企業によって、日本のシェアはわずか5%に過ぎなくなった。ボトムアップの意思決定すら疑うことができる見識が、トップには求められる。
確かにボトムアップは、組織全体の知見を活かせるシステムだ。「だが」、と橋本氏は言う。それは同時に、失敗の責任を曖昧にし、「誰も本当のところを言わない」という隠蔽体質を生み出しやすいのだ。組織内の気心の知れた仲間たちの中では、耳障りの良い報告が優先される。トップが現場を疑い、真実を見抜く強い意志を持たなければ、ボトムアップ型の意思決定は「思考停止」に陥る危険性をはらんでいたのである。
一方、中国企業の意思決定は「トップダウン」だ。経営トップが決めた方針に従って、組織が動く。トップが誤った決定をするリスクは常に伴う。部下たちも時には無理な指示に従う羽目になる。しかし、その代わりに組織全体が「ミッション遂行」に集中できるという利点がある。責任が一点に集約されることで、組織の迷いがなくなるのだ。
どちらの意思決定方法が優れているという話ではない。しかし、変化のスピードが早い液晶ディスプレイの世界では、その「迷いのなさ」が中国企業に有利に働いたということである。
■ 一線を退いた今
日本、米国、中国のビジネスを駆け抜けた橋本氏は、77歳で退職した。父親が仕事を引退したのが77歳だったので、自分も同じ年齢で、と決めていたという。
現在82歳の橋本氏のもとには、今でも経営者やビジネスパーソンが意見を求めにやってくることがあるという。会話の中で「冥土の土産」を好んで使うようになったが、まだまだ元気だ。インタビュー後、橋本氏の元部下が待つビアレストランへ向かった。一番多くビールを飲んだのは、橋本氏だった。
