— 震災から1年4か月(*)、報道が消えた被災地からの願い
解体作業中の油圧ショベルの音が響く輪島の街。更地になった朝市、数多く残る倒壊家屋。報道が減り、能登が少しずつ忘れ去られてゆく今だからこそ、能登からの「来てほしい」という切実な声に耳をかたむけ、「心をこめて観る」旅に出かけよう。

令和6年能登半島地震から1年4か月が過ぎた2025年5月。報道は減り、「道路開通」、「祭り再開」といった明るいニュースだけが伝わり、能登は順調に復興していると思われがちだ。
しかし、大都市から遠く離れた能登半島では、世間の認識と現実との間に大きなギャップがある。注目されにくい今だからこそ、能登を訪れ、そこで暮らす人々の思いを聞いた。

本当に能登に行ってもいいのか
震災直後、土砂災害の危険から「来るな」というイメージが定着した能登。石川県は「今行ける能登」キャンペーンで観光情報の発信を始めている。
しかし、「被災地」と「観光」の組み合わせには違和感を覚える。ボランティアもせず、観光で行ってよいのか。
のと里山空港にある能登半島広域観光協会で、事業部長の万年広一(まんねん・ひろかず)さんに聞いた。
「私も自宅が全壊して避難生活を送っていました」
万年さんは普通のことのように淡々と語った。能登では誰もが何らかの被害を受けている。
「正直に言えば、去年の今頃に観光と聞いたら首をかしげたでしょうね。でも、最近は仮設住宅の整備が進んで、ほんのわずかですが『光』が見えるようになってきたんですよ」
人差し指と親指を合わせ、その小ささを強調する万年さん。被害状況や考え方は人それぞれだが、一年前と比べれば観光客を受け入れる機運は高まってきた。
「観光」の語源は中国の古典『易経』にあり、本来は「心をこめてその地域の光を観ること」を意味する。今の能登で「心をこめて観るべき光」とは何なのか。
「すべて修復された後では、ここで何があったか、リアルに想像できません。能登には土砂災害や津波の爪痕、数千年に一度といわれる隆起した海岸がむき出しのまま残っています」
「日本で暮らす限り、大きな自然災害がいつどこで起こるかわかりません。自然の本当の力を目の当たりにすることで、防災・減災意識を高めてもらえる。それは今だからこそ体験できることなんです」
万年さんは続ける。
「それから…、子供たちですね。地震は一生子供たちの記憶に残ると思います。でも、怖い記憶だけじゃなくて、多くの大人たちが助け合う姿を間近で見られるのは、貴重な体験です」
「うちも子供がいますけど、大好きな『はたらくクルマ』もたくさん見られて、それって今だけなんですよ。大人が、こう……、たくましく……」
そこまで語った万年さんは言葉に詰まり、目を真っ赤にする。一瞬の沈黙があった。能登の親たちは自分は後回しで、子供たちの笑顔を守ろうとしてきたのだろう。
厳しい状況にあっても、子供や地域を思い、助け合う文化はどのように育まれてきたのだろうか。
万年さんは話題を変えて、祭りの話をしてくれた。
「能登では『盆暮れに帰らなくても、祭りのときだけは帰って来い』って呼びかけるんですよ」
祭りの話になると、万年さんの目が輝きだす。

万年さんの故郷、能登町宇出津の「あばれ祭り」では、巨大な松明を燃やし、火の粉を浴びながら「キリコ」が練り歩く。
「祭りのときは同級生、先輩、昔の仲間とひたすら酒を飲むんですよ。知らない家でお手洗いを借りると、『飲んでけ』『食べてけ』って言われて、遠慮すると叱られる」
万年さんは昔を懐かしむように、愉快そうに笑った。
「そんな人と人とのつながりは、能登独特かもしれませんね」
2024年、賛否両論がある中で震災から半年後に「あばれ祭り」が敢行され、結果的には地域の人々を奮い立たせた。祭りは苦しいときの助け合いや思いやりの心を育んだ、能登の文化そのものだ。

奥能登・輪島へ
奥能登の輪島に向かった。輪島は2024年元旦の震災だけでなく、同年9月には豪雨被害も受けた。バスが輪島に近づくにつれて、車窓には土砂崩れの現場や仮設住宅が次々と現れる。
終点でバスを降り、街を歩く。地面の隆起で歩道が割れ、油圧ショベルが建物を解体する「ガリガリッ」という音が人通りの少ない街に響きわたる。かつて多くの観光客で賑わった「輪島朝市」のエリアは火災で焼失してしまい、海からの風が更地の上を吹き抜けていた。
街の中心部から少し歩くと、潰れたり傾いたりした家屋が次々と目に飛び込んでくる。1年と4か月経っても、震災の傷跡はあちらこちらに生々しく残っていた。

そんな街を歩きながら、「四十沢木材工芸」を営む四十沢宏治(あいざわ・こうじ)さん、葉子(ようこ)さん夫妻を訪ねた。
1947年創業。輪島塗の土台となる「木地」を製造してきたが、2024年の地震で工場が被災した。自宅とギャラリーは無事だったものの、工場建屋が激しく損傷し、内部では木材や製造装置が散乱していた。

なぜそれでも輪島なのか
輪島は古くから地震、水害、火災などの災害に繰り返し悩まされてきた。リスク分散のために、工場を別の場所へ移転しようと考えたことはなかったか。
「選択肢として考えなかったわけではありませんが、移転は他の選択肢がないときですね」
宏治さんはきっぱりと答えた。なぜそこまで輪島にこだわるのか、輪島の魅力とは何なのかたずねると、少し考えてこう答えた。
「輪島の魅力は、やっぱり友だちがいるってことです」
輪島には「キリコ」で知られる「輪島大祭」など、多くの祭りが今も残る。その運営を担うのが「御当組」(おとうぐみ)という仕組みだ。同年齢の厄年の男性グループが42歳前後の3年間、当番を務める。実際の当番はずっと将来であっても、仲の良い年代は20代前半からグループを結成し、「会合」と称して酒を酌み交わす。
「『会合』といっても、ただの飲み会なんですけどね」
宏治さんは愉快そうに笑った。
同い年の横のつながりだけでなく、祭りの引き継ぎを通じて縦のつながりも生まれる。そこで培われた絆は生涯続き、災害時には互いに助け合う原動力になってきた。
奥能登は古くから「陸の孤島」と呼ばれてきた。その不便さゆえに残されているものがある、と葉子さんは語る。
「半島の先に吹きだまって取り残された、祭りを中心にした信仰心や人の絆が残っているんです。何百年もの信仰に根ざした、まるで土から生えてきたような人が今もたくさんいます」
オリジナル製品が好調な一方、輪島塗の木地は売上の4分の1に減った。それでも木地作りをやめないのは、それが四十沢木材工芸の「根」であり、輪島の復興に不可欠だからだ。
震災後、多くの漆器店から「早く四十沢さんが立ち上がらないと困る」という声が寄せられた。地元の仲間や多くのボランティアと共に、倉庫を2か月以上かけて片付け、震災後わずか6か月ほどで生産を一部再開した。
「輪島に育てられたから、今があるんです」
宏治さんは静かにそう語った。
サン=テグジュペリは『人間の大地』にこう書いている。「この世に本当の贅沢は一つしかない。人間の関係という贅沢がそれだ」
人口流出が続き更地が目立つ輪島であっても、「本当の贅沢」を守ろうとする人々がいた。

輪島の人々の願い
もっと輪島の人たちの話を聞きたいと伝えると、四十沢夫妻は快く夕食の席を設けて友人たちを招いてくれた。
地元の神社の禰宜の女性、江戸時代から続く漆器店のご夫婦。初対面にもかかわらず「遠くからよく来てくれましたね」と温かく迎えてくれた。
能登の新鮮な刺身と味の濃い野菜で酒が進む。外は閑散としているのに、この居酒屋「連」の中は別世界だ。満席の店内ではあちこちのテーブルから賑やかな声が聞こえる。
酔いが回ってきたころ、こんな話題が持ち上がった。
「去年は別の街にでかけて、『輪島から来ました』って言うと、お見舞いの言葉をもらえたけど、年が明けたとたん、何も言われなくなった」
「被災地のイメージだけで見られるのは抵抗があったけど、これだけきれいに忘れられちゃうと、なんだか寂しいよね……」
一同はしんみりとした。
輪島は古くから交易で栄え、訪問者を温かく迎えてきた開放的な港町だ。報道が減り、世間から忘れられたり、復興が進んでいると誤解されたりすることが、輪島に暗い影を落としている。
しかし、彼らは座って待っているわけではない。禰宜の女性は全国放送の番組で「多くの人に来てほしい」と訴えた。四十沢夫妻は各地の販売会でこう伝え続けている。
「ボランティアしなくてもいいので、フラっと輪島に来てください。見たままを友だちに伝えてくれたら、それだけでいいですから」
のと里山空港から羽田に向けて飛行機が離陸する。
万年さんが別れ際に語った言葉を思い出す。
「本当に怖いのは、忘れ去られることなんです。時間が経てば経つほど忘れられてしまう。でも、実際に来ていただけると、『能登を忘れてないよ』って直接言われた気がするんです」
報道が減り、能登は記憶から消えようとしている。しかし、そこには今日も変わらず人々の暮らしがあり、復興への長い道のりがある。
彼らが求めているのは、特別なことではない。ボランティアでなくていい。支援金でなくていい。ただ、能登を訪れてほしい。自分の目で能登を見て、能登の人々に会ってほしい。
そして、見たままを誰かに伝えてほしい。それだけで、「忘れていないよ」というメッセージになる。
機内は空席が多かった。でも、これからもっと多くの人が能登を旅して、そこで暮らす人々に「忘れていないよ」と直接伝えてほしいと願う。

参考図書:
須田寛『新しい観光』
輪島市史編纂専門委員会『輪島市史』
サン=テグジュペリ(渋谷豊訳)『人間の大地』
